【お城の歴史】上田城の歴史を徹底解説!真田家の軌跡と上田城の魅力

こんにちはユキチです。

戦国の世、小国ながらその智謀により数ある戦いをくぐり抜け、表裏比興と評された真田昌幸によって築城された城、信州の上田城。
戦国武将の中でも特に人気がある真田家の居城ともあり、訪れる人も多い観光名所にもなっています。
今回はそんな上田城を深堀りし、真田家から現在に至るまでの歴史を紐解いていきます。

目次

上田城の基本情報

上田城の基本情報はこちらとなります。

別名

尼ヶ淵城

城郭構造

梯郭式平城

天守構造

なし

築城主

真田昌幸

築城年

1583年(天正11年)

主な城主

真田氏・仙石氏・藤井松平氏

廃城年

1874年(明治7年)

上田城は長野県上田市に位置する日本を代表する城の一つです。1583年に戦国大名の真田昌幸によって築城され、当時は戦略的に重要な拠点として利用されました。
特に徳川家康による2度の遠征に対しても落城することなく徳川軍を退け、その名を天下に轟かせました。
現在では城跡が公園として整備され、歴史を感じさせる城門や石垣が訪れる人々を魅了しています。

観光スポットとしても有名で、春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が美しく、四季折々の自然と共に楽しむことができる名所です。また真田家をはじめ、歴代城主ゆかりの品々を展示した博物館や、城の周辺には歴史的な名所も数多く存在します。真田家ファンや歴史好きだけでなく、家族連れやカップルにも人気のスポットとなっています。

上田城の地理的概要

上田城は長野県上田市、上田盆地の北部に位置しています。
北に太郎山・南に千曲川を要し、お城自体は千曲川による河岸段丘の段丘崖上に作られています。
当時お城の南側には千曲川の分流が流れており尼ヶ淵と呼ばれていました。また北から西側にかけては矢出沢川という川も引き込んで、南北と西側は河川による天然の堀が形成されていました。
唯一の攻め口である東側にも当時は湿地帯が多く点在し、地理的に敵が非常に攻め難い場所であったと言えます。
この地を築城場所に選んだのは、まさに真田昌幸の知略がなし得たものと言えるのではないでしょうか。

上田城の歴史的背景

それでは上田城の築城から現在に至るまで、どのような歴史的背景があったのでしょうか。少詳しくみてみましょう。

①築城から真田家の奮戦

1583年 天正11年
【築城】

上田城の築城開始は1583年(天正11年)です。
この年の歴史的背景からみてみましょう。
織田信長が本能寺において明智光秀に打たれた翌年となり、織田家の新しい当主をめぐる争いにおいて、羽柴秀吉が同じ織田家重臣である柴田勝家と争います。そして秀吉と勝家の対立が頂点に達し、世にいう「賤ヶ岳の戦い」が勃発した年です。
この頃関東・甲信地方では、信長亡き後の旧武田領の支配体制に空白が生じていました。これを巡って徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが入り乱れて争乱状態となっていました(天正壬午の乱)。
武田家滅亡から生き延びていた真田家も徳川家康に属し、上州沼田などの領地を獲得していました。
こんな状況下において真田昌幸は信州上田の地を本拠とすべく、徳川家の援助を受けながら築城を開始したのです。

1585年 天正13年
【第一次上田合戦】

羽柴秀吉が中央で織田家を差し置いて実質的な主導権を握ると、それを警戒した徳川家康は当初対立していた北条氏直と和睦します。その条件として家康は真田家に上州沼田の領地を北条方に明け渡す命令を下します。当然のように納得がいかない真田昌幸は徳川家から離反し、越後の上杉景勝を頼ります。
この時上田城はまだ未完成の状態でしたが、対徳川の前線基地ともなる上田城築城を上杉家は承認し援助を得られます。
1585年(天正13年)8月、徳川家康は離反した真田昌幸に対し7000の兵を出陣させ、上田城を攻撃します。しかし昌幸は嫡男信幸、次男信繁(幸村)と共に巧みな戦術で徳川軍を撃退します。
この「第一次上田合戦」において上田城の普請は上杉方の多くの武将を動員して行われたと言われています。
そしてこの年の9月、上田城は徳川・上杉両勢力の援助を得るかたちで、わずか2年の歳月で完成を迎える事になったのです。

1600年 慶長5年
【第二次上田合戦】と上田城破却

時は過ぎ1600年。豊臣秀吉亡きあと天下の主導権把握をもくろむ徳川家康と、それをよしとしない豊臣家臣である石田三成が関ケ原で激突。天下分け目の「関ヶ原の戦い」がこの年に起こります。
これに先立ち家康は、江戸から関ケ原方面へ徳川軍本体3万8000を息子の秀忠に指揮させ行軍させます。
信濃を経由する中山道を行軍しますが、その途中には石田方(西軍)についた真田昌幸が籠もる上田城があります。籠もる真田軍は約2000人ほど。
秀忠は行軍に際し後顧の憂いをなくすため、上田城に攻め掛かります。
しかしまたもや徳川軍は上田城を攻めきれず、7日も時を無駄に過ごします。
結局秀忠の本体は関ケ原の戦いに間に合わず、家康の激怒を被る事になったのです。

しかし「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利に終わり、敗軍の将となった真田昌幸、信繁(幸村)親子は上田城を明け渡し、紀州九度山へ蟄居させられます。
この際に真田家が築城した当初の上田城は徳川軍に接収・破却され、櫓・門・お掘りに至るまで完全に破壊・埋め立てが行われたと言われます。

1622年 元和8年
真田信之への上田領安堵と松代転封

関ケ原で東軍に属した昌幸の嫡男信幸は、上田領を安堵され上州沼田と共に真田家伝来の地を治めることを許されます。諱も「信之」とあらため、徳川家への忠節を誓います。
ただし破却された上田城は信之の再建申請もむなしく幕府に却下され、やむなく旧三の丸跡地に屋敷を新たに構えて藩政を行う事としました。
この屋形跡地は現在、県立上田高等学校となっています。

1622年(元和8年)幕府より信州松代への国替えが言い渡され、真田家は父祖伝来の上田・真田の地を離れる事となったのです。

②上田城新章 新たな始まり

1622年 元和8年
仙石家の統治

真田家に代わり新たな上田の領主となったのは、信州小諸5万石の藩主であった仙石忠政です。
1622年(元和8年)忠政は大阪の陣での功績も認められ、真田家に代わり上田6万石として上田の地に加増移封される事となりました。
上田藩初代藩主として移転してきたこの領主によって、新しい上田城が生まれる事になります。

1626年 寛永3年
上田城再建

1626年(寛永3年)仙石忠政が江戸幕府に出していた上田城の再建申請が許可され、普請が始まります。
縄張りは破却された真田時代の上田城を踏襲しているといわれていますが、現在見られる上田城は実のところ仙石家の普請によるものとなります。
再建普請により近世城郭として築城され、本丸に櫓7棟・櫓門2棟・それぞれの櫓をつなぐ塀が整備されたと言われます。二ノ丸にも櫓が作られる予定でしたが、1628年(寛永5年)藩主の仙石忠政が急死したことで普請が中止されてしまいました。
以後上田城の普請はそのまま再開される事なく、幕末を迎える事となります。

国立公文書館デジタルアーカイブ
1664年(正保元年)仙石家が江戸幕府へ提出した「信州上田城絵図」
1706年 宝永3年
仙石家の転封と藤井松平家の封入

上田城を再建し、初代上田藩主となった仙石忠政から3代目藩主の仙石政明の代になって、仙石家は但馬国出石へ転封となり上田の地を去ります。
1706年(宝永3年)仙石家に代わり新藩主となったのが藤井松平家です。
当時の藩主は松平忠周(ただちか)であり、仙石家が転封となった但馬国出石よりの移封となりました。お国のトレードといった感じです。
藤井松平家とは、徳川家康の出自でもある松平家の数ある分家の一つです。
家康の高祖父である松平長親の五男利長を祖とし、三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した事から、藤井松平氏と呼ばれます。
この藤井松平家からは幕末に日米和親条約と日米通商修好条約に調印した老中・松平忠固(ただかた)やその息子で最後の上田藩主となった松平忠礼(ただなり)、その弟でアメリカに渡り工学を修め、土木技師・測量技師としてアメリカで名を馳せた松平忠篤(ただあつ)が特に注目すべき人物として挙げられます。
このように幕末明治維新まで、この藤井松平家が上田藩を治める事となります。
上田城はこの間、新たな増築などはなく何回かの修繕を繰り返し幕末を迎える事となるのです。

③上田城廃城と復元

1874年 明治7年
廃城

廃藩置県により上田城は明治政府に接収され、軍隊駐屯地の設置などを経て1874年(明治7年)廃城となります。
上田城の土地・建物は民間に払い下げられ、本丸にあった7棟の櫓は現在の西櫓1棟を残して解体もしくは売却されてしまいます。
売却されたのは2棟の櫓で、当時上田常磐城にあった遊郭に払い下げられ移築されました。
櫓門や塀なども解体され、唯一本丸西櫓のみが残るかたちとなったのです。

1934年 ~現代
史跡への指定とお城の復元

1934年(昭和9年)本丸と二ノ丸のほとんどが国の史跡に指定されます。
その後、市民運動により移築されていた櫓2棟が買い戻され、1949年(昭和24年)現在の北櫓・南櫓として移築・復元されました。
1959年(昭和34年)に西櫓もあわせた櫓3棟が長野県宝に指定され、1994年(平成6年)には古写真を基に南北の櫓を結ぶ東虎口櫓門が復元され、現在目にすることができる上田城に復元されてきたのです。

今後
今後の復元計画

現在上田市では上田城跡の保存・整備計画を策定しており、主に以下の復元・整備を計画しているようです。

本丸櫓の早期復元

仙石忠政が復興した上田城の本丸には7棟の櫓が存在したことが確認されています。
現在3棟の櫓が現存・復元されていますが、残り4棟のうち東北隅みにあった2棟とその周辺の土塀を復元整備することを優先して進めていく事が上田市のホームページにも記載されています。
櫓の復元には詳細な古写真や絵図、設計図などが必要とのことで容易ではない事が想像できますが、ぜひ有効な資料が見つかって復元されることを願いたいですね。

市民会館跡地の整備

上田城二ノ丸にある旧上田市民会館と駐車場跡地の整備を進めています。
現在は市民会館、その周辺の駐車場は廃止されていますが、旧駐車場周辺が江戸時代の絵図によると「武者溜り」となっていた事がわかっており、2024年10月現在、武者溜りの発掘調査をおこなっています。市民会館跡地も含め、市民の憩いの場と観光拠点として整備していく方針との事です。
こちらは発掘作業など実際に進んでおり、今後の進捗に期待したいですね。

上田城の見どころ

これまで上田城の歴史について見てきましたが、最後に現在の上田城の必見スポットを簡単にご紹介していきたいと思います。

東虎口櫓門と北櫓・南櫓

上田城の顔とも言って良いかもしれない東虎口櫓門とその両脇にそびえる北櫓と南櫓。上田城に行ったらまずここを目指しましょう。門の前の広場には「信州上田おもてなし隊」が出迎えてくれるかも。
この櫓門と両櫓は入城料がかかりますが、中を観覧できます。
入城料・営業時間はこちら

  • 上田城南櫓・北櫓・櫓門 観覧料
     【一般】300円 【高等学校以上の生徒・学生】200円 【小・中学校の児童・生徒】100円
  • 上田市立博物館 常設展 観覧料
     【一般】300円 【高等学校以上の生徒・学生】200円 【小・中学校の児童・生徒】100円
  • 共通観覧料(上田市立博物館常設展および南櫓・北櫓・櫓門の観覧)
     【一般】500円 【高等学校以上の生徒・学生】300円 【小・中学校の児童・生徒】150円
  • 営業時間 
     8:30~17:00(最終入館は16:30まで)
  • 休館日 
     水曜日・年末年始・祝祭日の翌日

同じく城内にある上田市立博物館との共通観覧券を購入した方がお得となります。博物館も上田城ゆかりの展示品が数多く展示されていますので、櫓見学とセットで見学することをおすすめします。

西櫓(県宝)

西櫓 /Photography by Yukichi

江戸時代、仙石家による復興から唯一現存する西櫓。
こちらの櫓内には普段入ることができませんが、真田神社を奥に進むと櫓まで進む事が可能となっており、櫓を間近に見ることができます。
尼ヶ淵を上から見下げると、河岸段丘上に建っていて天然の堀を形成していた事を実感できます。
櫓の西側ふもとから階段ですが尼ヶ淵に下りる事が可能となっています。下から見上げる櫓も圧巻です。
結構急な階段ですので上り下りにはご注意ください。

本丸土塁の隅欠(すみおとし)

本丸隅欠き /Photography by Yukichi

上田城の特徴のひとつである本丸土塁の隅欠(すみおとし)を見ることができます。
むかしは鬼が入ってくる方角が北東とされ、鬼門と呼ばれて忌嫌われていました。その鬼門を除ける意味で土塁に隅欠を施した跡がしっかり見てとれます。
また上田城から北東の位置に海善寺というお寺がありますが、こちらもお城の鬼門除けとして建立された寺院です。
海善寺は元々海野郷(現在の東御市周辺)にあったお寺ですが、真田昌幸が築城時にわざわざ移転させています。
このことから上田城の鬼門除けは真田時代から強く意識されていたものと考えられています。

真田石

真田石 /Photography by Yukichi

戦国武将がお城を築城する際に、その権威を示す一つの手段として石垣に大きな石を使うという事がありました。
上田城には真田昌幸が築城の際に設置したという真田石と呼ばれる巨石が、北櫓の石垣に使われています。
真田信之が松代へ転封となった際にこの石を松代へ移設しようとしたところ、その重さで動かすことが出来なかったという逸話が残る巨石です。
が・・・ちょっと待てよと。
現在の上田城は仙石忠政が復興した姿ですよね・・・と思ってしまうのはロマンが無さすぎでしょうか。

いや、仙石家も真田時代のお城の遺構を利用してお城の復興をしているといわれるため、ここは信之が動かせなかった石がそのまま残っており、仙石家もそのまま石垣に使用したのだ!と思いを馳せましょう。

真田井戸

真田井戸/Photography by Yukichi

こちらも真田時代からの言い伝えが残る古井戸です。
実際に直径2m・深さ16.5あるとの事です。
この井戸は城の北方にある太郎山の砦や藩主館などに抜け道としてつながっており、有事の際にも城外の砦などと連絡がとれたり奇襲に使われたという伝説があります。
徳川の大軍と対峙した際に巧みな戦術を発揮できたのも、この抜け穴による連携や奇襲があったのではと想像を掻き立てられる逸話ですね。

尼ヶ淵

尼ヶ淵からの南櫓・西櫓 /Photography by Yukichi

尼ヶ淵は当時千曲川の支流が流れ込んでいた場所で、上田城の南側に位置します。
この尼ヶ淵の河川により、お城の南側は天然の堀が形成されていました。
現在河川は流れておらず、一帯は「上田城跡公園駐車場」と芝生が広がる「やぐら下芝生広場」、スケートボードやバスケットボールができる「上田城スケートパーク」などが設置されており、訪れた方の憩いの場となっています。
この尼ヶ淵から見上げる南櫓や西櫓の風景も写真スポットの一箇所としておすすめです。
河岸段丘の上に建っている事もよく分かり、当時この場所が河川だったことも想像しやすいかと思います。

注意点としてこちらの駐車場を利用してしまうと、本丸にたどり着くためのルートが少々きつい事があげられます。
西櫓脇の急な階段を登るルートか、けやき並木側に廻って二ノ丸橋付近の階段を登り、本丸を目指すかといったルートになります。
足腰に自信がない方や昇り降りを避けたい方はお城の北側にある「上田城跡公園北観光駐車場」の利用をおすすめします。

二ノ丸橋とけやき並木

二ノ丸橋・けやき並木遊歩道 /Photography by Yukichi

こちらの場所は二ノ丸のお掘り跡で、現在はけやき並木となっている場所です。
昭和3年から昭和47年まではこのお掘り跡に線路が引かれており、「上田温電北東線」という路線で電車が通行していました。
当時の名残として、駅のプラットホームに跡も残っています。
春夏は紫陽花が咲いたり新緑の木々からの木漏れ日が心地よく、秋には紅葉が美しい並木みちとなります。
お城に来ている事を一瞬忘れる空間です。

まとめ

上田城の歴史と見どころをまとめてみましたが、いかがだったでしょうか。
こうして歴史を振り返ってみると、上田城は意外と波乱万丈な運命をたどって来ていることが感じられるのではないでしょうか。
上田城=真田という認識は切っても切れないものですが、現在のお城の姿は仙石家時代のものであったり、幕末には国政に深く関与した藩主がいたりと歴史的背景を学んでから見る上田城はまた違って見えるのではないかと思います。
天守閣こそ無いお城ですが、春夏秋冬それぞれの季節に自然の彩りも絡めてぜひ訪れてみていただきたいお城の一つとしておすすめしたいと思います。

上田城 アクセスマップ(by Googleマップ)
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